忘れないうちにエントリしておこうかと。

2013年11月16日に開催された DevLOVE関西 Decision にて講演をさせて頂きましたが、その時に使ったスライドを公開します。あと、どんな思いをもって資料を作ってあの講演をさせて貰っていたかという事も。ほぼ殴り書きですが。書き始めると止まらなくなったので長いです(w

 

DevLOVE関西は(僕の所感ですが)開発者がより幸せに開発するには…という視点をお持ちの勉強会。中の人である中村さんからお声掛けを頂き、登壇の運びとなりました。当日、そのまま晩に関空からEU圏に発つ事が決まっていたので講演終了後に速攻で帰っちゃいましたが、すいません。(新原さんや染田さんの話、聞きたかった)

今回の講演で伝えたかったのは、実はどんなソフトウェア開発会社でも「専念」させる環境を作り出す事ができれば、勝手に「Productivity(生産性)」は上がるし、結果、売り上げもビジネス拡大も出来る素地が会社の中に出来る筈だっていう僕の持論。

 

僕はソフトウェア開発会社をベンチャーから上場企業まで5社経験してますが、どの会社でもホント「無駄」が多かったです。他に色々開発会社の話を聞いててもほぼ同じ。優秀な開発者に「専念」をさせていないんですよね。開発会社である以上は、開発する事が価値創造であり、価値こそがお金を生み出し、売り上げや利益という数字になって、会社を存続させ従業員の生活を守るのにも関わらず、です。

営業が大好きな「売り上げ」も、企画が大好きな「スペックシートを埋める新機能」も、「開発」なくしては、生み出される筈が無い。なのに、「開発」させない方向に組織が動いちゃうんですよ。「開発」が全ての源泉ですのにね。ホントいったい何考えてんの?…と僕はずっと不思議でなりませんでした。

開発者は開発をする為にその会社にいるのだから開発を担当する。ただそれだけなんです。報告が目的の会議とか、要件が明らかでないTELとか、マニュアル作りだのテンプレート作りだの、会社のルールだからとかいう理由だけのドキュメント作成とか、それで「開発」が進むのか?と。

優秀な開発者を管理職にするとか愚の骨頂で、開発リソースを自ら奪って何がしたいの?と思う訳です。それで新しい製品が出来ないとか、意味分からん。そりゃ、過去に成功した製品を作った担当者を管理職にしたら生まれるもんも生まれませんわ。だって開発できないんだから。本人がもう開発したくないってなら別ですけど。

XPだアジャイルだスクラムだ〜と開発プロセス・手法の議論も勿論必要なのですが、まず、開発者は開発業務に本当に「専念」出来ている環境なのか?仮に8時間が就労時間として 28800 秒のうち平均何%を開発行為にあてられているのか?って事を計測すると良いんじゃないだろうかと思う訳です。もし開発行為にあてられていない割合が多いのだとしたら、その時間にやってるそのタスクは本当にその開発者がやらなくちゃいけないのか?と問うてみる。

会議の為の資料作りは必要か。そもそもその会議は必要か。電話は必要なのか。PowerPointやExcelを開発者が使う必要が本当にあるのか。使うべきはEmacsじゃないのか、Xcodeじゃないのか。未だにexcelで課題管理する手間で数秒を喪失している無駄は本当に「開発」行為として有意か。全てを疑ってみる。非開発行為というノイズをなくし、当人の役回りに集中させてみる。役割が知的生産であればあるほどクリエイティブな仕事であればあるほど、その効果は顕著です。徹底的に「専念」して貰う事を意識するのです。

仮に毎日その9割を開発行為にあてられていたら開発力はいやがおうでも上がります。生産性も確実にUPします。生産高じゃないです、生産性。1年経ったらより難しい事が出来るように、同じ難易度なら速くできるようになっているという傾向(具合)です。

体感ですが、ウチにjoinしてくれたエンジニアは皆、生産性が劇的に上がってます。本人達はまだまだと言いますけど(そして僕も現状で良いとは全く言いませんけどw)。速過ぎで、マネジメント側が御客様へのoutputタイミングをコントールする時もあるぐらい。joinして貰った直後より成長の勢いは年々増していて、結果、新しいスキルや知見をドンドンものに出来ていて、開発するものに成果が現れ、売上げに繋がってく。どんな開発者も、ただ開発する事が好きというその一点を持っていれば、専念出来る環境で絶対に生産性は上がり、売上げに貢献します。生産性命。スピード命。

開発の世界で速さは常に正義です。自社製品ならその進化が訴求力を高めて売上げに繋がるし、残業圧力がかかりにくいので時間外手当という余計なコストもかからないし、受託開発なら万が一の時のバッファを常に確保出来るし(限界はありますけど)、try & error を何度も繰り返せるという意味で品質を担保する事もできますね、イテレーションまたはスプリントを何度も回せる感じでしょうか。

ソフトウェア産業における生産性UPって本質的には開発者の成長にしかありません。一方、生産高UPは工場で言うところのライン増。でも残念ながらソフトウェアの世界では人間を増やせば生産性は下がる訳です、疎結合なドメインに分離できない限りは。「1人で半年かかります、じゃぁ2人にすれば3か月で終わりますよね」….アホか。銀の弾丸は無いのはもう誰もが何度も言及してるのに、まだ言ってるんかと。

スケールアウトしても生産性向上を最大化できないのが分かってるんだから、スケールアップに頼る方が得策です。エンジニアをEC2インスタンスに例えるのはどうかと思うけど、そういう事です。microからsmallへ、smallからmediumへ。人間の成長力って本当に凄くて、成長志向のエンジニアを成長の糧たりうるプロジェクトで集中して事に当たらせると気が付けば high CPU instance ぐらいに平気でなってる訳ですよ。

絶対に必要なのは「専念」する時間。しかも単なる時間じゃなくて、専念すべき事に専念できる「連続時間」です。とにかく僕が見てきた組織はtotalの時間が長いだけで、その時間に「連続性」が無い。意味ない訳です。

シューティングゲームでいう「溜め」ってありますよね、まさにアレ。ノーマル弾をなんぼ打っても「堅い」ものは「堅い」。溜めれば瞬殺できるなら溜める方が良いんですよ。我慢が足りない、我慢が。開発者を御客様との打合せに巻き込めばそりゃ営業は「楽」でしょうよ。でもその結果、開発者の時間連続性を破壊してノーマル弾しか打てないようにする。そりゃ打てる弾数増やす為に残業させるしか無いでしょうよ。コストが気になるならサービス残業させるしか無いですよね。何がサービスだ。

知的生産系労働の特徴は、時間ではなく連続時間の確保がOUTPUTの質/量を左右する。皆、分かってる筈なのにエンジニアの時間を「分断」するようにしか組織って動かないように思うんですよ。本当に勿体ない。

開発者を開発に専念させて連続時間を確保する事を徹底的にやる

1年続ければソフトウェアな会社の生産性って絶対に上がります、論理的に考えても。ただ、成長志向のあるエンジニアと、非開発行為をやれるエンジニア上がりのマネージャーという「人」が揃わないといけないですけどね。ウチの場合、後者の役割は僕が今やってますが、この役をしたいって人がなかなかいない。開発は出来るけど、プロジェクトの中で開発以外の全てをやる人。優秀な開発者ほどそういう役回りは一番避けたいですよね、そこが難しいところ。

でも改めて Joel on Software 読んでみると、第7章でちゃんとそういうポジションが必要で、それをプログラムマネージャーって呼ぶんだって書いてあります。Joel も必要だって言ってる。

価値創造エンジンたるエンジニアと、それがフルスロットルで8時間動けるように調整する人、が揃えば「専念」が「生産性」を上げるサイクルの出来上がり。後は「専念」の結果生み出されるものをちゃんとお金に換える「マネタイズ」の部分(Monetizability)がしっかりしていれば、誰も搾取する事なく会社は超合理的に成長し続けられるんじゃないかと思うのです。

僕は今、自分の会社でその試行錯誤中です。開発者がフルスロットルで一日8時間動いたら何が起こるかは実証できた。あと足りないのは、joelの言うプログラムマネージャー的立ち位置の人、そしてマネタイズ、その2つが揃ったとき凄まじい富を生み出せるんじゃないかと思ってます。売上げじゃなくて1人あたりの利益。同じ売上げ1億でも、利益率が高くて人が少ない方が凄い訳ですよね。凄まじいというのはそっちの方向性です。

出来る出来ないはやってみないと分からないですけどね。だから僕は自分の会社を社会実験だと思ってやってます。上述の仮説を実証する実験場。もしお金という意味でも一定の成果が残せたらソフトウェア会社における理想的な組織像を提示出来るんじゃないか、もっと幸せな開発者が増えるんじゃないか。…と、まぁそんな思いで DevLOVE関西 では45分喋らせて貰いました。

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DevLOVE関西 〜Decision〜 (CC BY-NC-SA)

共感して頂ける方もいらっしゃったようで凄く嬉しかったです。2014年は、働き方についてOUTPUT強化する事を決めていて、今回のような話をどこかでまた出来ればと思ってます。ソフトウェア産業に限らずですが、個人のそれぞれ尖った能力の発揮機会を最大化するように組織は変わらないといけなくて、それを達成する為の新しいポジションも求められているという時代なのだと思います。