もうかれこれ毎朝の参拝を始めてから5年が経とうとしています。


(家から徒歩1分以内の大阪天満宮。参拝箇所として天満宮にこだわってる訳ではなく単に近いから)

iPhoneがまだ日本にやってくる前の2008年初頭から始めていまして、4年半程前に 習慣が人を変える 〜神社参拝のススメ〜 というエントリで紹介した事もありました。

今もまだ続いています。

2年目ぐらいから奥さんも加わりました。早ければ5時台に遅くても6時台には二人一緒に参拝してます。ここ1年ぐらいはforsquareでチェックインするようにもなって、今、大阪天満宮のメイヤーはウチの奥さんだったり :-)(僕は泊まりの出張で時々チェックインできなかったり、やらなかったりする)

 

ところで参拝は「お願いをする為ではなく、感謝や自己宣言をする」為のモノだと僕は感じていて、この5年弱、毎朝の大阪天満宮での参拝では一度も自分の事を祈願した事がありません。参拝は、朝の仕事モードに頭を切り替えるスイッチであり、神聖な思いで日々の感謝を述べて、自分が短期/中長期的に成すべき事を宣言して、最後に、今日も頑張るので見てて下さいね…と(心の中で)言うのみにしています。

賛否ありますが、参拝を始めるきっかけになった

夢をかなえるゾウ
夢をかなえるゾウ 水野 敬也

飛鳥新社 2007-08-11
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      この書籍の記述に激しく同意で、自分の事をお願いするのは好都合すぎる気がするなぁと思っちゃうんですよね。10円/100円/500円玉を1枚とか、まぁ奮発して1万円札を投じたとしても、「健康でいられますように」的な願いは、神様にしてみたら叶えてあげる為のコストパフォーマンスが悪すぎですから、普通に考えて。INとOUTのバランス悪過ぎやろ&#8230;みたいな(笑)
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      神様が金額考えたらダメって話もありますが、それなら何で0円じゃダメなんでしょうね。クリスチャンな方がされるように毎朝や食事前のお祈りで良い筈なのになぁと。そんな事を考えてると、何だか賽銭と祈願に論理的繋がりが出来なくて、やっぱり上述の本でガネーシャも言ってるように参拝ってお願い事じゃないよなと思いながら続けてます。
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      <img src="/images/2013/01/skitched-20130113-080510.png" /><br /><span style="font-size:80%;color:gray;">(季節によって色んな顔を見せる天満宮の門)</span>
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      神様がいるとしたら、きっと「祈願」なんてしなくても全部分かってて、自分が実現したい事に向けて必至に努力してる様子を見てくれている筈です。そしてそういう人が本当に実現させちゃうんですよね、きっと。願いは祈らず内に秘め、宣言した事を行動と努力で表現し続ける、そういう人にそっと手を差し伸べてくれるのだと思います。
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      祈願するぐらいなら、感謝して、宣言して、『見ててくれよな!』ぐらいの気概の方がずっと良いってのが5年弱続けて分かりました。目を閉じて静寂の内に心に刻む自己宣言は、その後の行動にとっても繋がり易いです。特に習慣化した自己宣言は、メリハリがついて生活の中に「漫然」がはびこるのを抑止してくれます。ジョブズが鏡の前で毎朝自分に問うたのも似たような感じなのかも。
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    <div style="clear: both; text-align: left; margin:10px auto 25px auto">
      <a href="http://www.flickr.com/photos/41022550@N07/8356298368" title="IMG_2888"><img style="float:none; margin:0px auto" src="http://farm9.static.flickr.com/8329/8356298368_8a5263a4f3.jpg" width="240" /></a> 

      <div style="font-size:70%;margin-bottom:10px;">
        <a href="http://farm9.static.flickr.com/8329/8356298368_8a5263a4f3.jpg" title="IMG_2888">IMG_2888</a> &copy; 2013 <a href="http://www.flickr.com/photos/41022550@N07">Dale Jackson</a>, Flickr
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      思考実験ですが、神の視点で考えてみれば、祈願や懺悔ばかりを耳にするよりも、感謝と宣言を耳にして、その人の行動を目にしてる方が愉しいと思うんですよね。「おぉぉ、やっとるねぇ、ほなやっぱこのへんで結実させとかなあかんちゃうか。いぁ、でももうちょっと積み上げて貰った方が後からもっと伸びるやろ。あとちょっと様子見とこか」みたいな感じですかね、何で大阪弁かは分からないけど。
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      で、お賽銭は決して見返りを求める為の金ではなく、「神聖な空気や雰囲気を維持してくれて有難う御座います」という関係者への感謝の気持ちという解釈が良いなと思ってます。
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      最近、初めてお会いした方や久しぶりにお会いした方に早朝参拝のことを話題にして頂く事が続いたので、自分は何で参拝を続けてるのかなぁと改めて考えてみた次第です。それは、感謝や自己宣言の機会の為であり、仕事へのスイッチでもあり、やっぱりお願いするのはちょっと自分的には違うのだと思います。
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